説教主題_2024_03_31◆イースター礼拝◆山中直義師

タイトル 「ここにはおられません。よみがえられたのです。」 聖書箇所:ルカ 24章 1~8節

 主イエスは、十字架につけられ、そのからだは墓(横穴式で広さがあり、石で入り口を塞いだもの)に納められました。弟子たちは皆逃げ去っていましたが、「イエスとともにガリラヤから来ていた女たち」は最後までその様子を見届けました(23章55節)。そして、週の初めの日(日曜日)の明け方早く、深い闇がまだ明けない時に、彼女たちはその墓にやって来ました。目的は、準備しておいた香料を主イエスのからだに塗ることでした。彼女たちは、自分たちなりに精一杯の誠意を尽くして主イエスに別れを告げようとしていたのだと言えます。主イエスを十字架につけた者たちが厳しい目を向ける中でのことでしたから、彼女たちのこの行為は非常に勇気あるものであり、主イエスへの深い愛の表れであったと思います。

 しかし、墓に来た彼女たちは、そこにあると考えていた主イエスのからだを見つけることができませんでした。彼女たちは「途方に暮れ」た(原語の原意は「道がなくなった」)と言います。すると、まばゆいばかりの衣を着た二人の人(御使い)が彼女たちのそばに立ち、こう言いました。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」

 彼女たちはなぜ、生きている方(主イエス)を死人の中に捜したのでしょう。なぜ、埋葬用の香料を準備して主イエスに最後の別れを告げようとしていたのでしょう。それは、主イエスが語られたことばを心に留めていなかったからです。危険を冒してまで自分たちなりの精一杯をしているつもりであっても、実はその行為は信仰に基づいたものではなかったのでした。そして、自分たちの思いをはるかに超えた主イエスのよみがえりの宣言を聞いたその時、「彼女たちはイエスのことばを思い出した」のでした。そしてこの後、彼女たちは主イエスのことばがすべて真実であったことを体験するようになります。

 私たちも、見当違いなところに主イエスを見つけようとしていないでしょうか。自分なりの精一杯の思いと行いではあっても、主のみことばを忘れた不信仰な態度で生きてしまってはいないでしょうか。「ここにはおられません。よみがえられたのです」。主イエスは、私たちが不信仰なままで見つけようとしているところには決しておられません。主イエスは、私たちを救うためのすべての御業を成し遂げ、よみがえって今も生きておられるのです。そして、主イエスのことばはすべて真実であり、すべてそのとおりに実現するのです。私たちも、「主イエスのことばを思い出し」、生きておられる主イエスとともに生きる者であらせていただきたいと思います。