私たちの教会について

鎌倉海岸キリスト教会は、聖書信仰に立つプロテスタントのキリスト教会です。
私たちは、聖書を誤りない神の言葉として信じています。

教団・教派を超えた、アメリカの56教会から送られた献金を元にして建てられたために、特定の教団・教派に属することをしませんでした。創立時の教会名にあった「独立」は、そのことに由来しております。

2013年7月16日より教会名は、腰越独立教会から鎌倉海岸キリスト教会に変わりました。

※エホバの証人(ものみの塔)、統一教会(世界平和統一家庭連合)でお困りの方はご相談ください。

牧師

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戸川偕生(とがわともみ)
1942年10月19日 東京生まれ
明治学院大学卒業
お茶の水聖書学院卒業

趣味:水泳

牧師略歴
1942年10月19日
戸川二郎牧師の次男として東京品川に生まれる
1950年8月
7歳の時、父戸川二郎牧師が鎌倉市腰越に建てられた腰越独立教会牧師に就任するため東京から腰越に転居
1965年3月
明治学院大学卒業、機械メーカーに就職
1981年8月
勤めていた会社を円満退社、知人と新会社を設立
1998年6月7日
礼拝中に霊的刷新を体験
2001年3月
お茶の水聖書学院入学
2003年3月
会社倒産
2004年3月
お茶の水聖書学院卒業、引き続き同校研究科にて学びを継続
2004年4月
腰越独立教会伝道師就任
2004年5月9日
戸川二郎牧師召天(97歳)
2006年6月18日
お茶の水聖書学院増田誉雄学院長の按手により腰越独立教会牧師就任
2013年7月16日
教会名を「腰越独立教会」から「鎌倉海岸キリスト教会」に変更
「私が牧師になるまで」
私が小学2年生の時、父が鎌倉で単立教会としての開拓伝道を開始したため、経済的に環境的に厳しい状況が続き、子供ながらに牧師という仕事に否定的思いを持ち、牧師にだけはならないとの決心をしました。
大学卒業後、機械メーカーの営業マンとして勤務し、31歳の時、知人の紹介でクリスチャンの梶芳子姉と結婚。
39歳の時、新しい仕事への挑戦の思いが強くなり、同じ思いを持つ仕事上の知人と、新しい機械を製作販売する会社を設立し、営業責任者となりました。
無謀な挑戦と言われながらも、順調に業績を伸ばし、中国、英国に輸出するまでになりました。
日曜日は家族で、父が牧会する腰越独立教会に外面的には熱心に通っていました。
しかし、信仰面では、この世のことが優先してしまう肉に属するクリスチャンでした。
そのことを、教会の一信徒から指摘され、信仰的な辛さを感じるようになり、新しい自分に変えられることを願っての祈りを毎朝することにしました。
祈りを開始して2年半、1998年6月8日の礼拝において、ヨハネ18章27節からペテロが、捕えられたイエス様のことを3度知らないと言ってイエス様を裏切った後、鶏が鳴いたことで、ペテロが自分の罪と弱さを知らされるということを取り上げての説教を聞いている時、突然「お前もわたしを裏切っているのだ。」との声が心のうちに聞こえ、思わず「神様その通りです。おゆるしください。」と心の中で叫んでいました。
その瞬間、心の中がきれいに洗われたという感覚とともに心の中がすっきりして、何とも言えない解放感と自由と平安に満たされたのです。涙が出てきました。
その後の説教は憶えていませんが、礼拝後、外に出て見た空の輝き、海の輝きは忘れることが出来ません。
いつも見ている景色なのに、全く別の景色に見えたのです。
私が全く変えられたということです。
心が、気持ちが、性格までもが帰られたということが、その後徐々に分かってきました。
それまで、説教が硬すぎると言って父のことを批判していたのが出来なくなり、父のために祈るようになりました。他人の批判も出来なくなりました。神様は一人一人を愛され、必ずその人にしかない良いものを与えてくださっているのだから、その良いものに自分も習うようにしようと思うようになりました。
そして何よりも感謝なことは、聖書が自分に語りかける神様のことばと実感できるようになったことです。
それまでは聖書もあまり読まず、読む時も義務的に読むだけで、霊的な理解度は全くなしでした。
これからの人生は、神様が決めてくださいとの気持ちになり、仕事の面でも、神様に委ねることが出来ましたので、精神的なゆとりが出て、それまでのように心配したり、いらいらすることが無くなりました。
そのような気持ちに変えられてから半年後、得意先のある貿易会社の社長から「君は神学校に行って牧師になりなさい。」と突然言われました。その社長には月に2回ぐらいのペースで会っていましたが、ノンクリスチャンでもあり、そのようなことを言う人ではなかったので驚きました。冗談と思っていましたが、それ以後、会う度に、まず、「神学校に行く決心はついたか」と問いただされました。
1年以上その状態が続いた時、その方は、私がはっきりした返事をしなかったためか、「君が牧師になったら、最初に自分が洗礼を受ける。」とまで言い出しました。
それほど熱心に私が牧師になることを勧める意味を考えるようになり、これは、その方を通して神様が私に語っておられるのではないかと思うようになりました。
私は自分の人生を神様に委ねる気持ちでしたので、この神学校行きについて、まず祈りました。
その時点では、牧師になるという思いには至っていませんでした。
なぜなら、小さな会社の営業責任者でしたから、私が会社を辞めて牧師になることが不可能だったからです。
ただ、神学校に行って聖書の学びをしたいとの思いは強くありました。
そこで、聖書的で、夜間学べ、交通の便が良い神学校を、父にも相談しながら探しました。
父は、お茶の水聖書学院を勧めてくれました。
2001年4月お茶の水聖書学院に入学いたしました。
会社の社長にも了解を得て、通うことが出来ました。
しかし、世の中は経済的に厳しさが増し、得意先の倒産などもあり、仕事の面では追い込まれて行きました。
銀行からの借り入れも難しくなり、営業的にも見通しが立てられる状況ではなくなってきました。
社長とも相談し、会社を整理、倒産させることにしました。
2003年3月31日に倒産させることとし、弁護士にその後のことをすべて委託することにしました。
その日は、債権者からの抗議も覚悟し、朝から会社に詰めていました。
お昼過ぎ、家から電話がありました。6年半前から入院していた母が召されたとの知らせです。母は93歳でした。
忘れられない日となりました。
その後数日は、葬儀のこと、会社のことと忙しく過ごしました。
会社の倒産後の整理にちょうど1年かかりました。
そのような状況でしたが、神学校には通い続け、2004年3月、神学校を卒業することが出来ました。
卒業式には、97歳になっていた父も出席してくれました。その折、父は、お茶の水聖書学院の名誉学院長である旧知の羽鳥明先生と久し振り(多分20年振りくらい)の再会ができ、喜んでいました。
翌月の4月25日の教会総会において、仕事の無くなっていた私は伝道師に推挙されました。
その時父は体調を崩していて、自宅のベッドの中でした。
体調が良くならないため、教会隣りの恵風園胃腸病院に入院いたしました。病名は胆管結石でした。高齢のため手術は出来ないとのことで、様子を見ることにいたしました。
様態は一時良くなりましたが、金曜日から悪くなりだしました。
5月9日日曜日の礼拝後、礼拝出席された信者の方々が父の見舞いに行きました。
午後、父のベッドの所で、私の伝道師就任の按手をしてもらいました。
夕方になり病状は悪化し、夜7時過ぎに召されました。
4月13日のイースター礼拝のメッセージが父の牧師としての最後のメッセージでした。
そして、私の伝道師就任の按手が父の最後の仕事でした。
私は、伝道師就任と同時に教会責任者の任につき、牧会することになりました。
知り合いの牧師先生に助けられながらの歩みでした。
2年後の教会総会において、私は、牧師に推挙されました。
単立教会のため、私に牧師としての按手をしてくださる先生が思いつきませんでした。
そこで、卒業後も学びのために通っていたお茶の水聖書学院の増田誉雄学院長に相談いたしました。増田学院長もある教団の責任者でしたので、まったくフリーの先生を紹介していただくつもりでの相談でした。
増田学院長は即答されました。「私がいたしましょう。いつにしますか。」
私は、思いもかけない返事をいただきびっくりいたしました。同時に願ってもないことと感謝いたしました。
増田学院長から6月の父の日はどうですかと提案され、その日に行うことを決定いたしました。
しかし、家族は反対でした。特に家内は、実兄が牧師であったため牧師夫人としての義姉の大変さを知っていたために、自分は体も弱く牧師夫人は無理であるとの判断から強く反対していました。
家内は、牧師夫人の大変さが分かるのと同時に、実兄が生き生きと牧師として働く姿も見ていましたので、結局は、私の牧師就任に賛成してくれました。
2006年6月18日(日)父の日、腰越独立教会で増田誉雄学院長の司式により私の牧師就任式(按手式)が行われました。
当日は、大学時代の友人も出席してくれました。一人は広島から来てくれました。
娘も式の中で、私の好きな聖歌(新聖歌257 キリストは生きておられる)を歌ってくれました。
あれだけなりたくなかった牧師に、人生の終盤になってしまうとは、人知を超えた神様の不思議を感じています。
2013年7月、牧師になってからの大仕事として、教会名の変更をいたしました。
オウム教事件以来、宗教への警戒心が強まって、それまでの腰越独立教会という名前では、どういう宗教なのか、独立とはどんな意味があるのかなど、名前を聞いた段階で警戒的になってしまうとの意見が多く出されるようになったため、キリスト教であることをはっきりさせ、同時に所在地が分かるように世界的に知られている鎌倉という名前を入れた「鎌倉海岸キリスト教会」にいたしました。
牧師になってつくづく思うことは、牧師っていう仕事はなんと素晴らしい仕事なんだろうということです。
これからも神様の御心のままに張り切って歩んでまいりたいと思います。
教会の歴史

1950年7月16日 腰越独立教会創立
2013年7月16日 鎌倉海岸キリスト教会に名称を変更
2020年7月16日 教会創立70周年を迎える

腰越独立教会の歴史(初代牧師:戸川二郎)

腰越独立教会は、1950年(昭和25年)7月16日に創立されました。
教会が生まれるまでの事については、別項の読売新聞に掲載された記事でおわかりのように、アメリカに居られた新居姜子姉の30年に及ぶ祈りの結晶であって、実に神の御計画によって設立されたものであります。
新居姜子姉は太平洋戦争の終るのを待ってマッカーサー元帥の渡日許可を申請されましたが可成の期間がありました。
やっと渡日されても滞在許可は僅か60日でその間に設立地を決定するため真剣に祈られたのでした。
どうして私のような者が指名されたか。その経緯について新居姉の書かれたものを引用いたします。
「戸川二郎牧師は、有名なる米国ロスアンゼルス市のホーリネス教会の盲目伝道師で いらっしゃいました新里貫一先生と、常に聖霊によるお交わりを受けて居られたの事、実に新里先生はすばらしい伝道者で居られました。その新里先生の御紹介で来られたのが 戸川先生でした。
それは、1949年8月3日の朝6時2階の一室で『早く良い牧師が与えられますように』と祈って、階下に降りてくると戸川先生が玄関先に立って居られ、私は非常に驚いて殆ど息が止まる思いでした。
応接間でお話をしました結果、(今までに何人かの牧師が来訪されましたが、信仰の点でお断りしていました。)戸川先生とは全く同じ信仰でしたので、牧師となることをお願いしましたが、その時、先生は即答はなさいませんでした。」
これが同姉と初対面の記事です。私は1935年に淀橋教会副牧師に任命されましたが、その翌年新里師が来日されたのです。同県人でもありましたので、親しくお交わりをしていました。
私としては、鎌倉と言えば700年の仏都であり、200の寺社があると聞いただけで無力の自分にはとても無理と考えました。
ところがホーリネス教団の委員長である車田師御夫婦が励まして下さり、開拓伝道の十字架を荷う決心をいたしました。
会堂は、翌夏竣工いたしましたが、牧師館が無いため、会堂の西北隅に9畳間を造り、家族5人の住居として牧師館かできるまで、21年間、生活を致しました。
水道が引かれたのは更にその3年後でそれまでは井戸を使い、台所も外部の小屋でピューリタンのような生活でした。
何よりも、開拓の時より、外部の援肋を受けず、ここまで、自給の出来ましたことは、イスラエルを40年間養われた神が今も同じく肋けられたあかしができ衷心より聖名を崇めるものです。

神様が下さった新教会名「鎌倉海岸キリスト教会」(牧師:戸川偕生)

あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。
わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。   創世記17:5

ユダヤ人の祖であり、信仰の祖であるアブラハムは、かつてアブラムという名前でした。
ハランに住んでいたアブラムは、突然神様の召命を受けてハランを出発します。75歳の時でした。
その後24年間、さまざまなことを通してアブラハムの信仰は練られてゆきました。
そして、99歳になった時、神様はアブラムに新しい契約として将来の繁栄を約束する神様のご計画を示されたのです。
同時に契約のしるしとして、アブラムという名をアブラハムという名にするように命じられました。
99歳という年齢は、人間的に希望を持てる状態ではありません。しかし、神様の視点は違います。
これからアブラハムを通して、神様の栄光を表されるというのです。
神様の約束通り、それもアブラハムへの試練と信仰を通して、神様は栄光を表されたのです。
アブラハムは、その信仰のゆえに祝福され、175歳の人生を全ういたしました。
2013年7月16日、腰越独立教会はその名前を「鎌倉海岸キリスト教会」に変更いたしました。
教会名については20年以上前から、時折、改名希望意見が出ていました。
当初は、若い人たちの意見が主で、堅苦しい名前から横文字のしゃれた名前にしたいというイメージ的なものでした。
信仰的に必然性が感じられなかったため、話が進みませんでした。
しかし、この10年ぐらいの間に、改名の提案理由が変わってきました。
それは、インターネットの普及により不特定多数の人が教会名を目にするようになったこと、またカルト的な宗教が社会問題を引き起こしたことによって宗教に警戒感を持つ人が多くなり、教会の名前からの印象も無視出来なくなってきたためです。
腰越独立教会という名前を、キリスト教を知らない人が見たならば、何の宗教なのか、独立とは独特な何かがあるのか、という印象を与える懸念があります。
伝道という観点からしても、この名前を考えなければならないと思うようになりました。
名前の変更は大きな決断ですので、変更が神様の望まれることなのか、信徒の方々の思いはどうなのか、祈りつつ前に進むことに致しました。
まず、改名の是否のアンケートを取りました。結果、半数以上の方々が改名に同意されました。
次に名前の確定ですが、これについては、複数回のアンケートと話し合いを重ね、2013年度の感謝総会に於いて「鎌倉海岸キリスト教会」に決定することができました。
しかし、63年前、教会創立者の新居姜子姉、恵風園創立者中村春次郎氏、戸川二郎牧師の三名で決められた名前を変更するということは、創立時のことを知っている私としては逡巡するものがありました。
私の心のどこかに、この改名は本当に神様の御心に叶ったことだったのかとの思いが残っていました。
そのような私に、神様は思いもよらない方法で確信を与えてくださいました。6月24日夜、ある集会で次のような話を聞いたことによってでした。
「新しい名前が与えられるということは、神様がご計画実行のため、それも素晴らしい祝福を与えられるためである」と、アブラハム、ヤコブの例を通しての話でした。
新しい教会名は神様が私たちに与えられたものである。そこには素晴らしい神のご計画が秘められているとの確信を得たのです。
神様は私たちに「鎌倉海岸キリスト教会」という新しい名前を下さいました。
教会はキリストの体であり、私たちはその体の一部です。
私たち一人一人がそれを自覚し、新しい名前にふさわしい歩みの中で神様の栄光を表して参りたいと思います。

教会墓地

鎌倉海岸キリスト教会は、鎌倉霊園内(神奈川県鎌倉市十二所字太刀洗512)に墓地を持っています。
正面に刻まれている文字は、「待晨」(たいしん)。
イエス・キリストの再臨を待ち望むということを意味しています。


イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは死んでも生きるのです。」(聖書)