説教主題_2026_02_22◆伝道礼拝◆山中直義師

タイトル 「神のわざが現れるために」 聖書箇所:ヨハネの福音書  9章 1~41

 「見えない」ということは、本当に辛く苦しいことだと思います。あるとき、イエスは「生まれたときから目の見えない人」をご覧になりました。この男性を巡って、弟子たちは過去の原因に焦点を当て、「だれが罪を犯したからですか」とイエスに尋ねました。これは当時のユダヤ人の一般的な考え方であり、否定的で希望のない考え方であったと言えます。それに対してイエスは、「この人に神のわざが現れるためです」と宣言なさいました。「見えない」という苦しみに絶望するのではなく、そこにこそ神のわざが現れるという希望を示し、この人の目を見えるようにしてくださったのでした。

 盲目であったこの人は、イエスに触れられ、イエスのことばに聞き従うことによって見えるようになりました。それは、想像することさえできなかったほどの出来事でした。彼は、どれほど驚き、どれほど喜んだことでしょうか。しかし、パリサイ人たちはこの回復の御業を、宗教的規定に反する「労働」と見なしました。そして、「私たちはあの人(イエス)が罪人であると知っているのだ」と言い、神の御業を喜ぶことも感謝することもせず、自分たちの考えに固執して何も見ようとしませんでした。それに対して、イエスによって目が開かれたこの人は、ユダヤ人の会堂から追放されるという理不尽な迫害のただ中で、イエスを「主」と呼んで礼拝する信仰へと導かれたのでした(イエスに対する彼の応答は、「イエスという方(直訳は「人」)」、「預言者」、「神から出ておられる方」という認識から、最後には「主」と呼んで礼拝する信仰へと変えられていきました)。それは、彼の霊的な目がいよいよ開かれていくという幸いな出来事であり、これこそが「神のわざ」であったと言えます。
一方、パリサイ人たちは「自分たちは知っている」「私たちは見える」と言い続け、神が行っておられることから目を背け、目の前におられるメシアを決して見ようとしませんでした。そして、罪人を救ってくださるイエスを「罪人である」と言い続けたのでした。霊的に見えていないという現実を受け入れず、「見える」と言い続けるなら、真に霊的な盲人となってしまうことを本章は教えています。

 「見えない」ということは、本当に大変なことです。特に、霊的な盲目はその人のたましいと永遠に深刻な影響をもたらします。しかし、霊的に盲目であることに絶望して諦める必要はありません。イエスは、そんな私たちを確かに見ていてくださり、私たちの目を開くことが出来るお方だからです。本当に大切なことが見えないときにこそ、「神のわざが現れる」ことを期待し、「光」であるイエスのもとへ行き、このお方のみことばに聞き従うべきことを本章は教えています。「見える」と言いながらいよいよ盲目になっていく者ではなく、「見えない」ことを謙虚に認めつつイエスのもとへ行き、神のわざを見させていただく者たちであらせていただきたいと思います。