説教主題_2025_07_20_山中直義師

タイトル 「見よ、その日が来る」 聖書箇所:マラキ書 4章 1~6節

 旧約聖書の最後に位置するマラキ書は、前450-430年頃にイスラエルの民に対して語られた主のことばです。その頃、イスラエルの民は主を恐れようとせず、形ばかりの汚れた礼拝を平気でささげていました。彼らはかつて、主を軽んじてみことばに背き続けた結果として厳しいさばきを受けた(バビロン捕囚)にもかかわらず、同じ過ちを犯し、主のさばきを軽んじ、主を侮っていたのでした。

 3章13-15節には、祭司たちの度を越したことばがあります。当時のイスラエルが真に絶望的な状況であったことを思わされます。しかし、そんな状況にあっても「主を恐れる者たち」がおり、そのような者たちを主が深く心に留め、必ずあわれんでくださるという希望が16-18節に記されています。
そして、「見よ、その日が来る。」という宣告が語られました(4:1)。高ぶって悪を行う者を主が徹底的に滅ぼし尽くす日が必ず来る、というのです。一方、主を恐れる者たちにとっては「その日」は大いなる救いの日、喜びの日になるということが宣言されています(2,3)。不義が横行する闇が終わって義の太陽が昇り、傷つけられていた信仰者たちは癒やされ、喜び踊るようになるというのです。

 「その日が来る」ということが確かなこととして語られた後、マラキ書は最後の命令と励ましを語ります(4-6)。主はイスラエルの民に対して、「わたしのしもべモーセの律法を覚えよ」とお命じになりました(4)。高ぶって悪を行う者となって滅ぼされるのではなく主を恐れて救いに与ることができるように、主のみことばを重んじ、みことばに聞き従え、ということです。また、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」という約束をしてくださいました(5,6a)。これは、かつて罪を犯す者たちに預言者エリヤが悔い改めを迫ったように、さばきの日が来る前に主が預言者を遣わして悔い改めを迫ってくださるという約束だと思われます。そして、その命令(4)と約束(5,6a)に続けて、その理由が語られます(6b)。主の民が主によって打ち滅ぼされてしまうことがないように、何とかして悔い改めて主を恐れる者となることができるように、主は命令(4)と約束(5,6a)を語ってくださったということです。

 「わたしはあなたがたを愛している」(1:2)。このことばで始まったマラキ書は、最後まで主の愛を示し続けています。そして、主のこの愛は、旧約聖書のはじめから終わりまで、変わることなく示され続けています。私たちが主に背いて滅びるのではなく主を恐れる者となって救いに与るよう、主は切に願っていてくださるということです。そして主の愛は、預言されたとおりにこの世に来てくださった主イエス・キリストによって完全に示され、約束されていた救いが私たちに差し出されました。変わることのない主の愛を真に知る者たちであれるよう、みことばを重んじ、主の語りかけに真摯に応答する者たちであらせていただきたいと思います。