説教主題_2025_09_14_山中直義師

タイトル 「生きる手立てのすべてを」 聖書箇所:マルコの福音書 12章 35~44節

 私たちが「生きる手立て」としているのはどのようなものでしょうか。41-44節から、共に教えられたいと思います。

35-44節は一連の事柄として描かれており、教師としての主イエスの卓越性が示されていると言えます。そんな中で、38-40節と41-44節は強烈な対比を示しています。民を教え導くはずの律法学者のある者たちは、社会的に認められることを願い求め(38,39)、その間違った教えによって「やもめたちの家を食い尽くし」(40)ていながら、人に見せるために長く祈っていました。主イエスは、そのような者たちは「より厳しい罰を受けます」と断罪なさいました(40)。

 一方、主イエスはそのような教師たちに食い物にされていたであろう一人の貧しいやもめの信仰を見つめ、その生き方をご自分の弟子たちに模範として示されました。この貧しいやもめがささげたのはレプタ銅貨2枚(通常の一日分の賃金である1デナリの百二十八分の一)でした。神に対する彼女の思いと行動は、だれからも、特に、38-40節で警告されている教師たちからは目を留められることさえないものであったと言えます。しかし主イエスは、そんな彼女の行動をしっかりとご覧になり、ご自分の弟子たちを呼んで、「この貧しいやもめは…だれよりも多くを投げ入れました」と言ってくださいました。その理由は、「生きる手立てのすべてを投げ入れた」からだと言います。

 彼女にとって、あのレプタ銅貨二枚は「持っているすべて」であり、「生きる手立てのすべて」でした。そして、彼女はその「生きる手立てのすべて」を神にささげることを選んだのでした。私たちであればどうするか、自問し、私たちの生き方について考えたいと思います。主イエスを信じる信仰がないのであれば、そのような生き方は愚かだと言えるかもしれません。しかし、私たちの罪を赦して私たちを生かすために、主イエスは十字架におかかりくださったことを忘れないでいたいと思います。神の御子であるお方が、すべてを喜んで放棄してくださり、そのいのちまでもお与えくださったのです。そのお方に見つめられながら生きている者として、私たちがどのように生きようとしているか、私たちが真に「生きる手立てのすべて」としているものが何であるのかをよく考えたいと思うのです。

 主イエスによって教えられている私たちは、あの貧しいやもめの生き方を敬い、模範とする者たちでありたいと思います。