説教主題_2025_04_27◆伝道礼拝◆山中直義師

タイトル 「自分自身のうちに塩気を保つ」 聖書箇所:マルコの福音書 9章 38~50節

 主イエスは、罪のゆえに滅びへと向かう罪人たちを救うために、十字架を目指して歩みを続けておられた。しかし、その後に従う弟子たちは、主イエスの御思いが分からず、知ろうともせず、「だれが一番偉いか論じ合っていた」(33節)。そんな弟子たちに対して主イエスは、「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」(37節)と言われた。成長の遅い弟子たちを主イエスが受け入れてくださったように、主イエスの弟子たちは互いを受け入れるべきことが教えられた。
それにもかかわらず、ヨハネは主イエスに反対していない人を受け入れることを拒んだ(38節)。自分たちが悪霊を追い出せなかったこと(28節)も影響していたかもしれない。しかし主イエスは、「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です」(40節)と教えられた。「だれが一番偉いか」ということではなく、味方の中で内と外を設けようとするのでもなく、「互いに平和に過ご」す(50節)ことが求められた。41節では、「キリストに属する者」(まだ信仰の幼い者であったとしても)を受け入れて助けるのであれば、その人は決して報いを失うことがないことが教えられ、「キリストに属する者」を神がどれほど大切に思っていてくださるかが教えられた。
42節から50節では、「つまずき」(42,43,45,47節)、「ゲヘナ」(43,45,47,48節)、「火」(43,48,49節)、「塩(気)」(49,50節)ということばが鍵語となり、主イエスを信じる者を決してつまずかせてはならないこと、自分自身を決してつまずかせてはならないこと、自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごすべきことが教えられている。「キリストに属する者」として、滅びることなく「いのち」(43節)、「神の国」(47節)に入るために、その人は懸命に励まなければならない(手や足や目を切り捨てるというのは誇張表現であり、それほどの覚悟と行為が必要だということ)。私たち(キリストに属する者)がそのようにして「自分自身のうちに塩気を保」つことで、私たちは互いに平和に過ごすことで出来る。
主イエスは、私たちが罪のゆえに滅びることがないように、ご自身のすべてを捨てて十字架にかかってくださった。信仰の成長が遅くあまりにも幼い私たちを切り捨てるのではなく、その遅々とした歩みをあわれみをもって見守り、助け導こうとしてくださった。この主イエスの御愛とあわれみこそが、私たちに真の塩気を与え、私たちを「キリストに属する者」として保つものではないだろうか。主イエスの御愛とあわれみを深く覚えつつ、そのみおしえに真剣に聞き従いつつ、キリストに属する者たちとして互いに平和に過ごしたい。