教会便り_290号 (2018_03_25発行)

2018年 3月25日  鎌倉海岸キリスト教会月報

十字架と復活

(1965年3月25日発行「恵みの雨」より)

ーーーーーー
キリストの弟子たちは、イエスこそ地上の王であり、全世界の救い主であると確信していた。そのイエスが、こともあろうに十字架の上で残酷な死を遂げてしまった。彼らは全く絶望してしまった。文字通り、彼らの心には悲しみの夜がやって来たのである。もしキリスト教が、キリストの死をもって終ってしまったならば、その福音には人を救う力のあろうはずはない。それこそキリスト教も他の宗教と同じように、死せる教祖を拝む宗教と言われるに違いない。

しかし、キリストの弟子が告白したように、「主はよみがえりたまえり」である。弟子たちが涙にくれていた三日目の朝、イエスは約束通り復活されたのでる。ああ、それは、驚異と歓喜と救いの朝であった。もう一度失われた人類の上に永遠の命の太陽、希望の光が昇った朝であった。

復活の教えはキリスト教の土台である。もしこの教えを取り除くならば、土台を敷かずに家を建てるようなもので、ちょっとした風雨に押し倒されてまうのある。幸いなことに、キリスト教には、十字架の死という厳粛な事実と復活という喜びの事実とがある。ここに救われる希望があるのである。パウロは、

「もしキリストがよみがえられなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは今なお罪の中にいることになろう」と宣言している。(Ⅰコリント15章17節)

然り、キリストの復活がなければキリストの教えは偽詐であり、無力である。
しかし最初のイースターの朝、キリストは信じる者を救い、ご自分が神であることを実証するために、墓の門をけやぶって出て来られたのである。キリストは十字架の上で完全に死なれたのである。聖書が教えるように、槍が心臓まで刺し通されたのである。

その体からは血と水とが流れ出たのである。墓には一個中隊もの番兵がいて堅く防御していた。また、キリストの弟子の中にはトマスのような非常に懐疑的な弟子もいたのである。少なくとも弟子の中には偽詐を真実と信じたり、宣伝したりするようなお人好しは一人もいなかったのである。
然り、キリストは生ける肉体をもってよみがえられたのである。

イエスの復活は、ただ弟子たちに対して夜明けであったばかりでなく、全人類の上に照り輝いた救いの光である。ヨハネは、「それ神はその独り子をたもうほどにこの世を愛したまえり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の命を得んためなり」と言っている。(ヨハネ3章16節)ヨハネは、神の子イエス、復活の主の中に、永遠に変わらない愛と永遠の命を見出だしたのである。
さて、読者よ、あなたはこの幸いな救い主、イースターの主イエスを信じ、従っているだろうか。
ーーーーーー

過日、教会二階の書庫を整理中に信仰誌「恵みの雨」(新生運動発行)バックナンバーの綴りが出て来ました。何年か前に「恵みの雨」は廃刊になっておりますが、信仰的な内容で廃刊を惜しむ声が多くありました。特に昔の「恵みの雨」は内容的に充実しており、今でも読み返してみる価値があります。

ちょうど十字架と復活のショートメッセージが掲載されている号がありましたので、転載させていただきました。