初代牧師:戸川二郎
こんな寓話を聞いたことがある。ある山に住む狐が大きな洞穴の中で大宴会をすることになり、山中の小動物を招待した。空腹の小動物たちが大喜びで洞穴に入っていった。
遅れて来た野兎は入り口で首をかしげた。入る足跡はあっても、出て行く足跡がない。
これは狐の餌食になっていると悟り大急ぎで逃げたということである。
即ち、人間も、欲望に目がくらむと亡びる、という教訓である。確かに多くの人への警鐘であろう。
ある有名人が遺言に、死んだときこの紙を棺の上に貼ってくれと言った。その紙には「この男は、名誉も地位も財産もつかんだが、幸福をつかむことができなかった。」とあった。
その「幸福」とは何であるか。
節約の像のような人がいた。定年退職の時、見事にローンなしで桧造りの豪邸を建てたが、祝宴の後、急病で死んだ。わが家に住んだ日は僅か三日であった。
東大といえば、日本の最高学府である。卒業生の中に、学校始まって以来、最優秀者といわれた学生がいたが、その人が病気のため社会人になる前に急逝してしまった。大学の教授は「彼の死は、国家の損失なり」と嘆いたという。このように死は人生の全てを奪い去るものである。
ある人が言われた。「死というものは、老人には、目前にあり、壮年者には横にあり、青年には後ろに立っている。」と。年代によって意識の違いがあっても、誰にも離れずぴったりとそばに付いているのである。
病院には4号室が無い所がある。4 が 死を連想させるからである。
誰でも死の事は考えたくないが、誰もが確実に避けられない事実である。
「人生とは、墓場に向かっての行進である。」といった人がいるが、その死がいつかわからない。
歌人、在原業平が「ついに行く道とはかねて知りながら、昨日今日とは思わざりしを」と歌っている通りで、病気でなくても交通事故が多く、外出した家族が帰宅した時、ホッとするといった時代である。
日本は、世界一の長寿国であるが、どんな長寿者でもいつかは死を迎える。
ここで、「死後はどうなるか」という大問題がある。未来を知るには聖書に頼る以外にない。
聖書に預言されたことは誤りなく実現しているのを見ても神の書であることがわかる。聖書には、人は生まれながらの罪人で、滅びる者とある。そこで神は、人の罪を除くために、
神が人となられ十字架の刑で死なれた。しかし、神であられる証拠として三日目に墓から復活された、それがキリストである。このキリストによって罪が許されたと信じる人は、天国へ行くことが出来るのである。
人にとって最大の敵は「死」(永遠の滅び)である。その死を征服されたのが実にキリストである。
クリスチャンにとって死は、暗い室(この世)から、明るいサンルーム(天国)に入ることで、この世の苦しみ悩みが消え去る時なのである。九十六歳で天国に行かれたあるおばあさんの葬儀で、式のプログラムに「告別式」ではなく「天国への凱旋式」とあった。その人の人生は、波乱万丈であったが、信仰による平安と喜びに満たされ、真の幸福をつかまれたのである。式の終わりにお孫さんたちによって復活の歌「美わしの白百合」が合唱された。人生の最高の幸福は復活の希望をもつ事である。