初代牧師:戸川二郎
景勝の地として知られている七里ケ浜は、夏は涼しく、冬は暖かい理想郷である。
胸を患った人が癒されるための好適地として建てられた一つが恵風園サナトリウム(現在、同名の胃腸病院)である。創立に尽力された中村春次郎氏は、 医者の家系を継がれた方で当時、仁徳の人として評判で「医は仁術也」のことば通り、貧しい人々には施療されたということである。
その長女として生まれた姜子さんは、地元の学校を出られてから若くして渡米され、やがて日本人移民としての成功者、新居三郎氏と結婚された。新居氏は1897年に初めて日本に映画を持参して上映した人であった。米国では40万坪の果樹園を経営されていた。
姜子さんは、息女が病気された折、教会に導かれ今までキリストは外国の神と思っていたが、天地創造者、父なる神として拝む真の神と知ったのであった。1920年頃から起こった「排日運動」の原因は何かというと、移民たちの目的はただ財をつくり帰日することであった。
その貧欲な生活ぶりは人問とは思えないため「東洋の猿」といわれたのであった。
ロサンゼルスで女学校を経営していた新里貫一氏は、クリスチャンになってから、アメリカ人から野獣のように見られている日本人を教化するため、 学校を止め、伝道師として活動を始めた。ある日街頭で伝道していたが、暴漢に襲われ、目と耳が不自由な体になってしまった。
然し不自由な体にめげず各地の日本人のため伝道を続け、1940年にヒュー ストンで初めて新居姜子さんと出会い師弟の交わりを持つようになったのである。女性の活動家で評判になり、同市を訪れる有名なクリスチャンは皆、新居姜子さん宅を訪れた。例えば社会事業家の賀川豊彦氏、救世軍司令官の山室軍平氏、真珠湾攻撃隊司令官の渕田美津雄元大佐等で新居姜子さんに会われた方は、 伝道者、はだしの行動に驚かれたという。
しかし、新居姜子さんの念願としていることは、生まれ故郷、鎌倉の腰 越に教会を建立し、多くの方々に幸福な人生を知っていただく事であった。
1949年8月1日の読売新聞に「祖国に教会を建設-在米37年一女性の悲願実る-」との見出しで、新居姜子さんが腰越の地に教会を建設することになったニュースを七段抜の写真と記事で全国版で報道されたのである。マッカーサー元帥の滞在許可は60日で、その間に建 設地と牧師を決定しなければならない。幸い土地は、父春次郎氏が恵風園の土地の一部を無償提供されたが、牧師を選ぶことが困難に思われた。当時、東京の品川で戦火で焼失した教会再興を祈っていた私の所に同郷の好みで親しかった前記の新里師より、長い理由を書いた手紙が来た。
そして腰越教会の牧師となる人は君のほかに無いからぜひ頼む、との文面であった。
私は返事をためらっていると何通も繰り返し依頼されたのである。そこで腰越に滞在中だった新居姜子さんを直接訪問した。初対面であるのに百年の知已のように親しく話され、私に対し「神様が選ん で下さった方と信じます。」と言われた。私も神様に祈ってお引受けしたのである。
宗教で満杯のような町で、十字架による救いで、喜び、平安希望を与えるこの福音を伝えるべく浜辺の教会はあなたを待っている。