タイトル 「キリストのからだ」 聖書箇所:I コリント 12章 4~31節
『本章は、「御霊の賜物」(別訳:御霊のもの、御霊の人々)について教えています。コリント教会ではこのことについて誤りと混乱があり、霊的な事柄について自己卑下したり誇ったりする者があり、教会の一体性が失われていたことが伺えます。
パウロはまず、「霊的」であるということは「イエスは主です」と告白することで証明されると教えています。自分を誇って他者を見下したり、だれかを誇って派閥を組んだりするのではなく、十字架にかかられたイエスを主と告白し、イエスを主として生きていることこそが真に霊的な生き方だというのです。
次にパウロは、「霊的な」事柄としての「賜物」(語源は「恵み」)について教えます。キリスト者一人ひとりに与えられる賜物はそれぞれ多様性に富みつつも、与える方は同じ「御霊」、仕える相手は同じ「主(イエス)」、その働きは同じ「神(御父)」です。よって、そこには優劣や競争や不調和がないようにしなければなりません。
パウロはこの多様性と一体性について、「からだ」をたとえとして説明します。「からだが一つでも、多くの部分」があるように、キリストのからだである教会もそうだと言うのです。キリスト者はみな、「一つの御霊によってバプテスマを受け(受身形:授けられ)」、「一つのからだ」となりました。ですから、自己卑下をしたり、自分を誇って兄弟姉妹に「あなたはいらない」などと言ってはならないのです。むしろ、キリストのからだにとっては「ほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならない」のです。神は私たちをキリストのからだとして、それぞれ多様な者として「組み合わせられました」(神による配剤)。それは、「からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合う」ためです。
本章の最後でパウロは、(皮肉を込めて)「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と命じています。しかしそれは、コリント教会の人々が競い合って求めていたものとは大きくことなるものであり、「はるかにまさる道」であると言います。そして、それこそが「愛」なのだと次章で教えています。
現代の私たちも、「霊的である」ということについて間違わないようにしたいと思います。「イエスは主です」という告白に生き、多様性と一致を大切にしながら恵みとして与えられた賜物を用い、互いに愛し合うキリストのからだであらせていただきたいと思います。